Vol.4 プロフィール・エピソード Part.2
今回も、高校時代のエピソードを書かせていただきます。
東海大相模は、私の1年時全国優勝をする程、すでにレベルの高い選手
が揃っていた事もありますが、長い練習をしなかった記憶があります。
練習最後のランニングもベーラン4周のみでしたし、守備練習も試合前の
シートノックの延長の様で、1時間もやらなかった気がします。
フリーバッティングはゲージ3ヶ所で練習時間の2/3は割いていました。
スクイズはなかったので、ノーアウトないしワンアウト3塁を想定して外野
フライを打つ練習もしたものでした。
但し監督の話は長く、走った後延々と30分は話すので、体力のない私は
よく倒れたものでした。
体力があり、足も速く、野球に対する意識が高い選手が集まっていたから
それでも結果を出せたのかと思いますが、それ以上に自主性があったの
かも知れません。
校内にグランドも合宿所もあるので、全体練習が終わった後や、夜の時間
には素振り・ティーバッティング・ランニング・照明灯のあるブルペンでは
ピッチングも出来る環境にありました。
その環境を使い、強制される事もなく自主的に上手くなりたければ練習を
するという事を覚えた気がします。
今、日野ボーイズの指導法の基になっているのは、自主的に何でもする
という事ですが、理想と現実は上手くかみ合わず苦戦しています。
もう一つ決して忘れられない事があります。最後の夏の大会の予選前の
事ですが、寮の食事の内容がベンチ入り18名とそれ以外の者とは別メ
ニューになりました。
同じ食堂で食べるのですが、ベンチ入り18名はすき焼きなのに、それ以
外はいつもの寮の食事でした。
今なら問題になっているかも知れませんが、厳しい現実でした。
高校生でありながら、頑張った者は旨い物が食べれるというハングリー
精神を植え付けられた気がします。
食い物の恨みは絶対に忘れない、絶対に見返してやると強い精神が
芽生えたのは間違いありません。
そして最後の夏の大会の予選が始まる前の6月には、3年生全員を集
め進路についてのミーティングがありました。
大学へ進学して野球を続けたい者の確認の為でした。
勿論私は大学で野球を続けたい希望を出しました。高校でレギュラー
ポジションを取れていない事に気兼ねはありましたが、そんな私でも
原監督はそんな事は関係ないと同級生6~7人と東海大学の練習に
参加させてくれ、希望すれば入学も出来ましたが、結局はレギュラー
キャッチャー、控えピッチャーと3人で関東学院大学に行かせてもら
う事になりました。
原監督は厳しい人ではありましたが、教え子に対しては本当に面倒
見のいい人でした。
その恩は忘れる事無く、今自分が教え子に対して親身になって進学
先の面倒を見ているのは、その時の恩返しで決して忘れてはいけな
い教えの一つです。
もう一つその後の野球人生で教訓になった出来事があります。
3年最後の夏の甲子園予選、準決勝での出来事です。対戦相手は
法政二高、8回まで6-2で負けていました、最終回もすでに2アウト
になり、誰もが法政二高の勝利を確信していたかと思います。
そこからドラマが始まりました、まずは三遊間のゴロをショートがファン
ブルしランナー一塁、次の代打がレフト前ヒット、フォワボール満塁
から、その後東海大・中日へと進んだ石井がセンターオーバーの三塁
打、そして再び三遊間へのゴロをショートがファンブルしてセーフにな
り同点。その後延長になり11回裏にフォアボールで出た投手藤村を
一塁に置き、再び石井がセンターオーバーを打ち、鈍足の藤村がや
っとの思いでホームまで帰りサヨナラ勝ちをおさめました。
誰もが負けを意識したと思いますが、ゲームセットを言われる最後の
最後まで野球は諦めてはいけないという事を、人生の教訓として教え
られました。
その後決勝戦も勝ち甲子園出場を決めましたが、当時甲子園メンバ
ーは14名でその中に入る事は出来ず、フェンスの中と外との天国と
地獄の差を味わいました。
1年時に春と夏に応援に行っているので、計3回甲子園には行きまし
たが、全てアルプススタンドで、甲子園でプレーする事の難しさ、悔し
さを痛感したものでした。
あの時もっとバットを振っていればとか、あのチャンスをものにしてい
ればとか、後悔ばかりが頭の中を巡り回りました。
だからこそ選手には、1球の重みを教え、1球たりともおろそかにして
はいけない事を、自分の様に後悔させない為にうるさく指導しています。
もう一つのエピソードとしては、甲子園での練習メンバーのことです。
甲子園に出場すると、ベンチ入り14名の選手だけでなく、練習要員も
含め30名程が一緒に宿舎に泊まり行動を共に出来ます。
但し東海大相模の場合は、県予選メンバーとわずかの3年生は練習
メンバーとして甲子園に行けますが、その先はない3年生より来年の
為に甲子園を経験させるという意味から2年生をより多く連れて行き
ました。
試合には出れなくとも、せめて甲子園に足を踏み入れるだけでも出
来たらと思いましたが、それさえも叶う事が出来ませんでした。
絶対に見返してやると思う強い気持ちはより強力になりました。
しかし、今の自分があるのはあの時の悔しさがあったからこそと思って
います。中途半端に甲子園メンバーに入っていたら、高校で野球は辞
めていたかも知れません。
私の教え子で聖望学園に行った選手がいます。最後の夏にチームは
甲子園出場を果たしましたが、その選手は甲子園メンバー18名には
入れず、ブルペン横のボールボーイとしてグランドの中には入れて
もらったようです。甲子園練習の時にはベンチ入り出来ない3年生に1本
づつシートバッティングを打たせてくれたそうです。
岡本監督の人間性を感じるエピソードですが、もし私が監督として甲子園
に出場したなら、同じ様に最後まで頑張った3年生は甲子園に連れて行
ってやりたいと思います。
最後に、大勢の方に惜しまれ昨年天国へ逝かれた原 貢監督をはじめ、
同期の24歳にして大洋入りが決まったにもかかわらず逝ってしまった
W氏、30半ばでなくなったM氏、余命3週間になり同期を集めて最後
のお別れをして逝ってしまったO氏、お見舞いに行くたびに衰えてしま
い逝ってしまったI氏、偉大な指導者と青春を共に過ごした仲間に、冥
福をお祈りいたします。
次は大学でのエピソードを書きたいと思います。
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