日野ボーイズ 公式サイト ~中学生の硬式野球チーム~

Vol.3  プロフィール・エピソード  Part1

今回は、私のプロフィール、その時々のエピソードなどを書いて行きたいと思います。

 

前回の投稿から1年も空けてしまい、その間のチームへの問い合わせ、体験練習会の参加は激減してしまいました。
時間的な余裕がないとはいえ、チームを持っている以上今の世の中ネットでの配信は必要不可欠かと思います。今後は優先的な時間配分をし、私が伝えたい事をどんどん発信して行きたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

私が本格的に野球を始めたのは高校に入ってからです。
中学までは学校のクラブ活動での野球でしたが、中学3年生の夏の甲子園大会は、松山商業と三沢高校の決勝戦が延長18回再試合で松山商業が優勝した大会でした。それをテレビで見て本気で甲子園を目指そうと思いました。
勿論それまでも、甲子園に出て、プロ野球選手になるんだなどと漠然と夢は持っていましたが、真剣に思ったのは中3の夏でした。

 

その事を義理の兄に話し、連れて行ってもらったのが東海大相模でした。
義理の兄は柳川商業を出て、西鉄ライオンズに入った元プロ野球選手でしたが、その兄が九州にあった東洋高圧というノンプロの選手で、そこの後輩に当たるのが原辰徳巨人軍監督の父、故原貢でした。
そんな関係で、東海大相模の練習に参加すると二つ返事で入学が決まり、合宿も4番バッターと同室という優遇で入部させてもらいました。
当時の東海大相模は、夏の甲子園に初出場し1回戦で敗れたとはいえ、秋の関東大会を制し選抜の出場も決まっていました。
選抜も優勝した箕島に1回戦で敗れましたが、夏の甲子園では全国優勝を果たすという強豪校になっていました。
今年の相模が45年ぶりの夏の全国優勝と言っていましたが、私が1年生以来という事になります。

 

在学中、何度かレギュラーポジションを取るチャンスもありましたが、チャンスを活かしきれず、結局3年生最後の夏の大会はベンチ入り出来ずスタンドでの応援で悔しい思いをしました。
言い訳になりますが、あまりに身体能力の差があり過ぎました。同期のメンバー入りしている平均身長・体重は180cm80kg近くあり、大型選手ばかりでした。
エピソードとして、春先のトレーニング期間、大型トラックのタイヤ引きをさせられましたが、私が霜で緩んだグランドをやっとの思いで引きずるのに対し、ある者はタイヤを弾ませながら走っていました。
そんな選手が何人もいて、こいつら5~6人はプロに行くだろうなとまで感じたものでした。
ナンバーワンではなく、オンリーワンの選手にならなければ、レギュラーポジションどころかベンチ入りは出来ないなと思ったのはこの頃からでした。

 

部員数も、我々が卒業する時に同期が30名以上いましたから、100名以上は確実にいたのでしょう。しかしすでに同期は4名が他界しています。
キャプテンのW氏は、1年時レギュラーに抜擢され全国優勝を経験し、東海大でもキャプテン、日産自動車でも活躍し、入社2年後には大洋(現DeNA)入りが決まっていたにも係らず逝ってしまい、副キャプテンのM氏も30代で、補欠仲間で仲の良かったO氏も7年前、エースのI氏は一昨年で会えなくなりました。
そんな事があってか、同期は3期会(我々は7期ですが7期~9期)という会があり、年に1回はというより、今年は全国優勝した事もありすでに3回も会っていますが、益々結束が強くなっています。

 

私はショートを守っていましたが、この頃の東海大相模のショートは優秀な人材が多く、2学年上の井尻さんは夏の全国優勝のキャプテンで、東海大でもキャプテン、日本生命でもキャプテン・監督も務め都市対抗優勝、アトランタオリンピック全日本のコーチまで務めたほどの人材です。
1学年下の林は、私が3年の代からショートのレギュラーをつかみ、悔しい思いをしたライバルですが、東海大でもキャプテンで全日本優勝、日石でもキャプテン・監督で都市対抗も優勝、シドニーオリンピックのヘッドコーチも務め、現在明治安田生命の監督を務めています。
2学年下の杉山は、東海大・日産と進み社会人でも活躍し、現在東海大5高の監督をしています。
現在プロの選手でも、中日の森野、広島の田中が相模のショートを守った選手です。

 

原監督は、立命館大学の時に、説教が原因で途中で辞めたと聞いています。
あの時代、他の強豪校ではバリバリに説教で暴力を振るわれたと聞きますが、東海大相模では、先輩からの説教はほとんどありませんでした。
但し、監督からの鉄拳は半端ではなく、怒った時には怖くて目が合わせられなかったものです。
監督から鉄拳を受けられるのは期待の裏返しで、期待してない選手には手を出しませんでしたので、殴られるのを喜びとしていたのはおかしな話でした。
又、あの頃は練習中に水など飲ませてくれないのがスポーツ界のスタンダードでしたが、原監督は水は飲まなきゃダメだと言い、汗で塩分が不足するからとベンチ横の水道には、塩を用意して塩を舐めながら水を飲めと言いました。
今から45年前にそうした事を実践していた事が凄い事だと思います。
三池工業で初出場初優勝を飾り、その年に東海大松前総長にヘッドハンティングされ東海大相模に移り、3年で東海大相模を甲子園出場に導き、5年で再び全国優勝の栄冠を手にするには、そうしたいい事は受け入れる柔らかい頭と、新しい発想があったからこそかと思います。

 

私は高校時代、大した活躍が出来ませんでした。その大きな原因は絶対的な体力差です。野球選手が最高のパフォーマンスを発揮出来るのは25~6歳と言われています。だから高校時代に成長が遅い子が早い子に勝つ事は難しいのは仕方のない事だと思います。それでもメンバー入りを果たしたければオンリーワンの選手になるしかありません。
ですから私は日野ボーイズで、3年後に体が出来ないだろうな、技術が追いつかないだろうなと思う選手には、徹底的にバント・進塁打を教えています。
オンリーワンになりメンバー入りを果たすには、ここ一番で送れるバント・進塁打が出来る、ここ一番で塁に出る為ファールで粘れる、的確な指示が出来るサードコーチャー、チームの為に自分を殺し貢献出来る。この4つしか生き残れる術はないかと思います。
これさえマスターしておけば、二十歳を過ぎて体力が追いついた時、大きなアドバンテージを得てライバルに逆転出来ると思うからです。
先に同期の5~6人はプロに行けるだろうと思っていたと書きましたが、一人は達成しましたが、それ以外は大学・ノンプロまでは行きましたが、大学・ノンプロ時代も含めレギュラーとして活躍は出来ず、一番パフォーマンスを発揮出来るはずの25~6歳で選手生活を終わらせています。
中学・高校時代に大した選手じゃないから、そんなに長く本格的な野球は出来ないだろうと思われていた選手でも、しっかりアドバンテージをつけておく事で25~6歳の時に最高に輝き、その先も長く野球が続けられる可能性は高くなるかと思います。
自分がそうだった様に、今たいした事のない選手でも必ず先に行って、今凄いと言われている選手を追い抜く事は可能だと信じています。それを教えたく指導を続けています。
日野ボーイズの本質はそこにあることを理解してもらいたいと思います。

 

続きはPart2をお楽しみに

 

  • 更新日:2015年10月21日
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